福岡と博多は、どげん違うと?(明治時代) |
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明治になり福岡は一大区、博多は二大区とされていました。 その後、区制から市制に切り替えられるときに、市名を『福岡』か、『博多』か、で議論が沸騰することになります。 福岡派と博多派。黒田家派による武士の町『福岡』、1800年来の歴史を持つ商人の町『博多』。 黒田長政入国以来二百八十余年に及ぶ対立感情が簡単に解けるものではなく、市名論争は日ごとに高まっていったそうです。 当初は、博多市の名称が有力だったそうです。またこの時とばかりに独立を唱える『福博分離論』なども出たそうです。 明治22年、時の福岡県知事(安場野保知)は、突然福岡市にする旨の告示をしたり、それに激憤した博多派との間で喧々諤々、市内は騒然となり、デマが飛び交い、新聞社には投書が相次いだそうです。 そして市議会の傍聴席は何時も超満員だったそうです。 いよいよ運命の明治23年2月14日、午後2時に市議会が再開されました。 出席議員博多派15名、福岡派12名。 採決になれば当然15対12で博多派の勝。しかし、何故だか同数となったそうです。 (議員が玄洋社社員に閉じ込められたという噂が流れたそうですよ) そこで議長の賛否により決める事となり、議長は福岡市に票を投じた事により『福岡市』に決まったそうです。 この市名改称問題はその後もくすぶり続け、何度も再燃したそうです。 「あたき(私)が市長のうちに博多市に変えて見せるけんね(河内卯兵衛)」と、公言してはばからない市長さんも居たそうです。 また、郵便などを出すときに自分の住所を『福岡市』でなく『博多市』と書き、郵便局員さんを困らせる人たちも大勢いらっしゃたとか。 |
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*博多が付く公共施設 |
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