加藤司書徳成(のりしげ)公は福岡藩の家老職2800石の要職にあり、勤王家。
加藤司書24歳、嘉永6年(1853年)7月ロシア船が来航した時、藩兵500余人を指揮し長崎を警護、同艦隊を穏便に国外へ退去させます。
文久3年(1863)8月、宮廷守護に当たっていた長州が解任され、尊攘派の7人の公卿も、京を追放され、福岡の太宰府の延寿王院藩で預ることになります。
翌元治元年(1864)6月、池田屋事件勃発。同年7月、禁門の変(蛤御門の戦い)で、長州は敗退。
その後、幕府は長州を討つために、広島に各藩の藩兵を参集しました。
加藤司書も福岡藩を代表し、また薩摩藩からは西郷吉之助も来ています。
黒田長溥は、『外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし』という考えの基、加藤司書に建白書を持たせ、徳川総督に提出しています。
加藤司書と西郷隆盛が参謀会議を止戦へと導き、長州の恭順を条件に解兵が実現しました。
この時に詠んだ歌が「皇御国の武士は」です。
加藤司書は福岡藩の倒幕派の中心的な立場にあり、福岡の血の気の多い急進派を抑えながら、黒田播磨(勤王派)と連名で福岡藩の行く末について建白書を提出します。
黒田長溥という殿様は開明的な殿様でしたが、薩摩藩とは反対の途を歩むことになり、倒幕に考えを改めることは出来ませんでした。
時代の流れに翻弄された福岡藩は、慶応元年(1865)明治維新のわずか2年前、勤王派の弾圧に着手します。世に言う『乙丑(いっちゅう)の獄』です。
斉藤五六郎・建部武彦・衣非茂記・尾崎惣左衛門・万代十兵衛・森安平・月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・森勤作・江上栄之進・伊藤清兵衛・安田喜八郎・今中祐十郎・今中作兵・中村哲蔵・瀬口三兵衛・佐座謙三郎・大神壱岐・伊丹信一郎・筑紫衛等・野村望東尼など、140数名もの維新で活躍するであろう全ての人達が断罪・流刑され、それと共に維新という時代の表舞台から福岡藩は姿を消すことになります。
切腹の場所は、天福寺。 加藤家の菩提寺は、節信院です。 ただ黒田長溥公は、後年福岡の逸材(金子堅太郎・山座円次郎・明石元二郎・栗野慎一郎・團琢磨等)を私費を投じて留学させています。
そして、なにより加藤司書の遺児達にも自分の不明を詫びたそうです。
加藤司書公銅造跡 福岡市中央区西公園山頂
節信院 福岡市博多区御供所町11-20
天福寺跡 福岡市博多区冷泉町5-35
天福寺 福岡市城南区南片江4-40-30
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