正木昌陽 不狭学舎 文政10年(1827年)〜明治38年7月(1905年)79歳 幼時より本を読むことを好み、一を聞いて十を覚えるというように非凡の才に恵まれていたそうです。 昌陽は木鶏と号し、若いときに京で、皇典や故実を学び、暁に起きて漢籍を読み、夕べには古典を学ぶという風に寸暇を惜しんで勉強をしたそうです。 嘉永5年(1852)藩校修猷館の加勢見習いとなり、25歳で助役になり、その後本官に就任。 当時は幕末維新の騒乱の時代でしたが、多くの人達が動乱の中に身を投じる中、彼は学問一筋に身を持し、尊王愛郷、神社崇拝の精神を世に広めることに尽くしました。 正木昌陽は、修猷館時代から不狭学舎(昌陽塾)を通じ、子弟の教育に全力を傾け、その穏健着実な学風は多くの人心に多大の影響を与えました。金子堅太郎もその一人です。 眼科医の女傑『高場乱(たかばおさむ)・人参畑塾』と好対照をなし福岡双璧の学者と讃えられています。 福岡市中央区今川2-8-20 |
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