東京帝国大学を卒業後、外務省に入省。欧米局長、オランダ公使、ソ連大使等を歴任。
昭和8年(1933)斎藤内閣に内田外相の後任として入閣。
11年(1936)3月、2・26事件後の組閣で首相に就任。
敗戦後A級戦犯。極東国際軍事裁判で、文官中ただ1人絞首刑となる。
しかし、判決は11人の裁判官中、3人が反対。オランダのベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは、疑う余地が無い」と、無罪を主張。
裁判において広田弘毅は、一切の弁解をせず戦争回避に努めたとは言え、結果として軍部の圧力に屈する事となり、戦争を阻止できなかった責任を自らに科し、裁判では一切の弁明を行わなかった。
参考:城山三郎「落日燃ゆ」
福岡市中央区天神3-16-10
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