福岡散歩道のガイドのページ

福岡博多は、どげん違うと?(安土桃山時代〜江戸時代)

 
安土桃山時代

1587年豊臣秀吉が九州を平定した後、筑前は小早川隆景が治めることとなり、名島城を築城します。
秀吉は交易上の要地としての博多を復興させ、この時に行った太閤町割(たいこうまちわり)という都市計画によって現在の博多の原型が出来上がりました。
度重なる戦乱で荒れ果てた博多を復興する時に、焼け石や瓦の破片などの瓦礫を使った土塀が築かれました。これが「博多塀」と言われる物です。 現在では、新しい家の塀にも積極的に使っている建築家も見られます。

豊臣秀吉の新たな街づくり(太閤町割)の結果、町並みや道路が整然と区画され、中世とは全く異なる都市・博多が誕生したのです。
秀吉は朱印状をもって「定」を定め、地租や賦役を免除し、楽市楽座を定めて、商工の振興を図り、博多の町を厚く遇したそうです。
そして誇り高き博多の町人達に自由都市としてその自治を認めます。
そしてまた、武士は「博多の町」には、住居を構えられなかったともいわれています。
博多は、豊臣秀吉の庇護の下に博多の豪商、嶋井宋室や紙屋宋湛等の豪商の協力を得て、力強い復興を成し遂げるのです。

博多塀
   
江戸時代

時は移り、関が原の戦いに勝利し、新らしい覇権者となった徳川家康は、武勲の代償として『黒田長政』に博多の土地を与えました。
また、ある説によると、黒田長政に九州以外の広大な地を与えようとしましたが、 豊臣秀吉政権の時に、博多の町割のための準備を命じられ、その陣頭指揮を執った黒田長政は、誰よりも博多を知り尽くし、博多に大変な魅力を感じていたので、他の領地を断り、博多港をもつ筑前を所望した。と言う説もあります。

黒田家が入国する以前の小早川家が居城とした名島城は、三方を海に囲まれた天然の要害でしたが、黒田長政は福崎に城を築き、黒田家の郷里、現在の岡山県にあたる『備前福岡』にちなんで『福岡城』と名付けました。

ここに、豊臣秀吉の庇護を受けた商人の町『博多』、黒田長政の入国により出来た城下町『福岡』の誕生です。

福岡城
   

Topページへ
 / 次へ