1587年豊臣秀吉が九州を平定した後、筑前は小早川隆景が治めることとなり、名島城を築城します。
秀吉は交易上の要地としての博多を復興させ、この時に行った太閤町割(たいこうまちわり)という都市計画によって現在の博多の原型が出来上がりました。
度重なる戦乱で荒れ果てた博多を復興する時に、焼け石や瓦の破片などの瓦礫を使った土塀が築かれました。これが「博多塀」と言われる物です。 現在では、新しい家の塀にも積極的に使っている建築家も見られます。
豊臣秀吉の新たな街づくり(太閤町割)の結果、町並みや道路が整然と区画され、中世とは全く異なる都市・博多が誕生したのです。
秀吉は朱印状をもって「定」を定め、地租や賦役を免除し、楽市楽座を定めて、商工の振興を図り、博多の町を厚く遇したそうです。
そして誇り高き博多の町人達に自由都市としてその自治を認めます。
そしてまた、武士は「博多の町」には、住居を構えられなかったともいわれています。
博多は、豊臣秀吉の庇護の下に博多の豪商、嶋井宋室や紙屋宋湛等の豪商の協力を得て、力強い復興を成し遂げるのです。 |