地行地区の元寇防塁
13世紀にアジアからヨーロッパにまたがる巨大な帝国を造り上げたモンゴル(元)は、5代目皇帝フビライの時に、日本に使者を送り、通交を求めました。日本がこれに応じなかったため、文永11年(1274)の10月に大軍をもって対馬・壱岐を襲った後、博多湾岸に上陸し、日本軍と激しい戦闘を繰り広げ、この時、博多の町は焦土と化しました(文永の役)。元寇防塁とは、鎌倉幕府が元の再来襲に備え、建治2年(1276)に九州各地の御家人に命じて、約半年間で博多湾岸の東区香椎から西区今津までの約20qに築かせた石築地のことです。
この地行地区の元寇防塁は、博多湾岸のほぼ中央部に位置しますが、その構造や築造分担国などまだわかっていません。なお、弘安4年(1281)に元の大軍は、再び日本を攻めましたが、この防塁のために上陸出来ませんでした(弘安の役)。昭和6年(1931)3月に国史跡に指定されています。
|